五月本文。

6.節制 −アザレアの花言葉と神明みのりのスタンス−
Temperance

5のみのり視点。スタッフロール後の話。

・節制
1 度を越さないよう控えめにすること。ほどよくすること。「喫煙を―する」
2 規律正しく統制のとれていること。
3 欲望を理性の力によって秩序のあるものとすること。

 

6.0

(五月三十一日)←非表示

演奏が終わって、鍵盤に添えた手に雫が落ちたことに気づいた。

自分でも不思議なくらいに自然に流れ出た涙は、頬に筋を作っていた。

きっと、あの人のことで涙を流すのは、これが最初で最後になると思う。

 

季節が巡った後の五月三十一日。今日で、五月が終わってしまう。

期待しないと言ったはずだったのに、やっぱり私はどこかで期待していたのかもしれない。

  

袖で涙を拭って、袴を直して、立ち上がった。

この格子戸を開けると、私の恋は終了する。

  

(6章表示)

  

6.1

 

六月十七日。

携帯電話のディスプレイには、溝口さんからの3通目のメールが届いたことを伝えていた。

ボタンを操作し、表示する。

ディスプレイに映る無機質な文字には、生真面目なくらいの優しさが映っていた。

それを無表情に読み取る。そして、返信のボタンを押さぬままに携帯の画面を閉じる。

この行為を友人は『つまらない意地』だと叱責した。私もそう思っているし、間違ってるんだと思っている。

しかしながら、こんなことこそがが神明みのりのスタンスだったのだ。

溝口さんにしか見せることのなかった、友人に見せることのない、冷たい部分。

だからこそ、私はこのスタンスを貫くつもりでいる。

例え今、胸が軋むように締め付けられるような痛みを感じていたとしても。

何に対して意地を張っているのかは分からなかった。それでも、私が私であるために、このスタンスが必要だった。

『溝口さんなら分かってくれる』と。自分勝手な想像でコーティングした節制は、いつまで続けられるのだろう。

  

その日は雨だった。あの日のような、五月雨だった。

   

・・・・・・・・・・

  

溝口さんが遠い所へ行って、もう二週間が流れた。

私の周りは一切何も変わることも無く、それぞれの六月が始まっている。

私自身も、きっと変わっていない。

ただ漠然と『もう会うことはないだろうなあ』と、そんな事を時々思っては胸に小さい痛みが走るだけだった。

きっと、あと何ヶ月もしてしまえば忘れ去ってしまうのだろう。もう、あのことは"いい思い出"になってしまうのだろう。

神社でピアノを弾き終えた後、格子戸を開けた時の強い落胆も、いつかは消えてしまうのだろう。

  

窓越しの空には五月雨が降っている。  

  

溝口さんが遠い所へ行って、もう二週間が流れた。

あの感触と感情は、まだ忘れていない。

  

 

6.2

 

十二月二十七日。

春が終わり、夏が過ぎ、秋を超えて、冬になった。

22通に及ぶメールには、常に『戻りたい、戻れない』といったニュアンスが表示されていた。

  

クリスマスは一人で過ごした。

  

もう半年が過ぎて、あの頃の記憶はあやふやになっていた。思い返す回数も減っていた。

そろそろ、本当に綺麗な思い出になっていくのだと、漠然と思っている。

   

それでもまだ、メールの文章に心が軋むように痛み、寂しさを感じてしまう。

ふと立ち止まった時、思い出したかのように疼きだす痛みはまだ、続いている。

衝動は弱く、しかしながら継続的な痛みはまだ、続いている。

  

朝から降っていた霧雨は、午後から雪に変わっていた。

凍り始める世界の中、私はあの時のぬくもりを思い出そうとしている。

  

  

この痛みを、人は恋というのだろう。

  

  

二週間後の一月十二日は私の誕生日だった。けれども、きっとその日にメールが来ることはないだろう。

お互いに誕生日も知らないような人を、私は未だに待ち続けている。

  

  

6.3

 

四月十六日。

『五月に戻る』

23通目のメールには、それだけしか書いてなかった。

『戻る』という内容のメールは、初めてだった。

    

半日考えて、返信を返すことにした。

出来るだけこの気持ちの映らない、淡白な返事を心がけて。

一年ぶりの言葉は実にそっけのない、私らしい言葉だった。

  

『期待しないで待ってるよ』

    

カレンダーの五月に、大きい丸印を書いた。

  

5.4

 

五月三十一日。

 

五月の青空の下、神明神社にピアノの音が響いている。

 

五月に入ってから三十一回目の、私一人によるピアノコンサートが間もなく終了する。

休日にしか行わなかった演奏は、五月の間中、平日も弾き続けていた。

待っていた観客は、まだ来ていない。

既に土日の休日は終わっており、あの人が水曜日の今日に来るはずがないと、ほぼ完璧に諦めていた。

曲は指が覚えている。別のことを考えていても、何度も弾いてきた指が音楽を作り出していく。

きっと、これからここで演奏することは当分の間しなくなるだろう。

この思い出が綺麗に流れるまで、私はこの鍵盤を触ることが出来ないのだろう。

『来る』と言って来なかった、あの人をもう思い出すことは無くなるのだろう。

胸の奥に覚悟を溜める。この演奏が終わった後の虚しい気持ちに少しでも耐えられるように、覚悟を。

  

・・・・・・・・・・・・・

  

演奏が終わって、鍵盤に添えた手に雫が落ちたことに気づいた。

自分でも不思議なくらいに自然に流れ出た静かな涙は、頬に筋を作っていた。

きっと、あの人のことで涙を流すのは、これが最初で最後になると思う。

 

季節が巡った後の五月三十一日。今日で、五月が終わってしまう。

期待しないと言ったはずだったのに、やっぱり私はどこかで期待していたのかもしれない。

  

袖で涙を拭って、袴を直して、立ち上がった。

この格子戸を開けると、私の恋は終了する。

  

  

 

格子戸を開けた時、拍手の音が聞こえた。

目の前に、溝口さんが優しい笑顔で佇んでいる。

頭の中が真っ白になった。

 

「・・・すまない、みのり。遅くなった」

一年ぶりの溝口さんは、少しだけ大人っぽくなって、少しだけ肌が焼けていた。

鼓動が爆発しそうなくらい脈打ってるのを感じる。

「・・・・・・お、遅いよ・・・。もう私、ほとんど溝口さんのことなんて忘れちゃったんだから・・・」

声が震えているのが自分でも分かった。視線がずっと溝口さんから離せなかった。

あふれ出す感情があまりに大きくて、もう何が何だか分からない。

私を選んで想ってくれる人が目の前にいる。それだけで、それだけのことが今の全てだった。

 

靴を履くのも忘れ、溝口さんの方へ歩いていく。石段の感触も、陽光の光も、今は分からなかった。

ただ、伝えたいことがあった。素直な本当の気持ちを、一年間の蓄積を、伝えたかった。

  

「・・・ずっと、待ってたよ。会いたかったよ」

  

いきなり抱きしめられ驚く私を、溝口さんは固く離さなかった。

背中に回された腕は、強くて優しかった。

  

ずっと待っていたぬくもりは、今、ここにあった。

  

  

  

五月の空は、私達の上でどこまでも澄んだ青を広げていた。 

高く高く広がる空から、優しい陽光が降り注いでいた。

 

  

  

五月が、終わっていく。

 

 

 

そして、

  

六月(これから)の空が、広がっていく。

 

 

fin.....