五月本文。
5.五月躑躅の咲く頃に when the azalea blooms |
5.1
五月三十一日、火曜日。午前9時。
BG:電車内
通勤に使っていたのとは逆に進む電車は、嘘のように席が空いていた。
朝の日差しが車内に差し込み、芸能人のスキャンダル記事を載せた中吊り広告がせわしなく揺れている。
窓に映る景色は80kmのスピードで流れていく。左から右へ、何かを考える暇も思う暇も与えず、絶えず流れていく。
座席が空いている中、ドアにもたれるようにして立っている俺は、若干不審に見られているかもしれなかった。
一秒一秒と刻々と時間は過ぎてゆく。あの街から離れていく。
「・・・・・・・・・」
携帯電話のディスプレイを何となく眺めている。
ロクに触りもしなかった携帯電話にはデフォルトの画面が浮かんでいる。時間と日付が小さいドットで表示されていた。
慣れない操作でボタンを押し、アドレス帳を開くと、"か行"の所で『神明みのり』の表記が現れた。
思わず苦笑が浮かぶ。
・・・今日になってやっと知ったのだ。まったく不思議な関係だったと思う。
電車は橋の上を走り出した。ガタガタと鳴る騒音と、上下の振動。ストライプの影が電車内を80kmで走破していく。
窓の外に視線を向ければ、中規模のビル群と住宅地が対岸に見える。あの小さい神社もあの中にひっそりと在るのだろう。
日光は眩しく、空は青くて、車内アナウンスは次の駅の名称を間違えて言い直した。
川を越えて、あの場所から離れていく。
・・・・・・・・・・・・・・
午前7時半。
BG:神社
神明神社の境内に砂利を踏む音が響いた。朝の爽やかな空気が広がっている。
この街を出る日の朝。朝早く起きてしまった俺は神社へと足を向けていた。
最後にもう一度・・・という意識が、我ながら女々しいと思う。
これからの無事を祈っておこうかと、拝殿へ足を向けると。
「おはよう。溝口さん」
まるでここにいるのが当然のように、みのりが立っていた。朝日で袴が綺麗に映えていた。
「・・・やっぱり来ると思ってたよ。溝口さん、単純だから」
みのりの笑顔は、悔しいくらいに眩しかった。
もう会うことはそうそうないと、一昨日から思っていただけに驚きだった。
「・・・待ち構えていたのか?」
「うん」
みのりはさも当然のように言い放った。
「もし、俺が来なかったら?」
「来ると思ってたよ」
頭が少しだけぐらっと揺れた。心臓が少しだけ強く動いた。
「・・・そんなに単純か、俺?」
「どんまい」
こうしたやりとりは、数週間前と変化が無いように見える。
ただ少しだけ。一昨日の出来事を超えて、お互いが引いていた線が少しだけ薄れている。
「・・・とにかく、俺はこれからの無事を祈ろうと思ってな」
「表向きはそうでも、裏では『寂しいよみのりちゃ〜ん』とか思ってたりするんだ?」
「あー、何とでも言ってくれ・・・」
・・・否定はしてない。
「あははっ。あ、溝口さん、ちゃんとした参拝の手法って分かってる?二拝二拍手一礼って言ってね・・・」
朝日差し込む神社の境内に"正しい参拝"講座の声が響いていた。
春の朝。爽やかで涼しい風が通り抜け、木々の葉を揺らしては静かな音を立てた。
神社の脇に伸びる道には、小学生やサラリーマンがおのおのの道へ歩いていく。みのりは『私はまだ間に合うから』と短く言う。
例え、数時間後には遠い場所へ行ってしまうとしても、この世界はいつも通りに平和だった。
「・・・っと、そろそろ私も学校行かなくちゃ。結構ギリギリになっちゃったよ」
巫女服の袖から出てきた腕時計は、似合わなすぎて滑稽だった。
「こんな所でぶらぶらしてるからだ」
「うわ、溝口さんひどいなぁ・・・。待ってあげたのに感謝の言葉も無し?」
口を尖らせて言うみのり。それでも目は笑ったままだった。
「それじゃ、行ってくるね」
「ん、行ってこい」
「はーいっ」
みのりは小走りで去っていく。
「・・・・・・・あ、みのり」
立ち止まる。
「うん?」
「・・・携帯電話の番号、教えてくれ」
今思えば、何かが色々と順番を間違っていたのかもしれない。
そんなことを思っては、みのりの苦笑を眺めていた。
「・・・それじゃ、今度こそ行ってくるね」
「ん。頑張ってこい」
「うん。溝口さんも頑張ってね」
言って、小走りに去っていくみのり。しばらく走って、振り向いた。
少しの間、こちらを見つめていた後に笑顔で手を振って、そしてまた走り出した。
神社に静寂が訪れる。聞こえるのは僅かな風音だけだった。
見送られる立場が見送る、何かが矛盾した別れ。
何億という出会いと別れの中には、こんなロマンティックの欠片のないような別れもあるんじゃないか、そんなことをぼんやりと思った。
回れ右して歩き出し、神社を抜けた。
巻層雲の走る五月の青空は高く遠く、そして広かった。
次、ここに来る時は、これから遠い日になる。
5.2
八月二十八日。日曜日。
BG:オフィス
とある企業のオフィスの一角。日曜日のために部屋内には俺一人しかいなかった。
黙々と作業を行う音と、ごうんごうんと鳴るエアコンの音だけが響いている。
窓の先には真夏の太陽がギラギラと輝き、沸騰させんとばかりの光線を大地に放っている。
僅かに手を止め、そんな景色に目を向ける。
夏季休暇が与えられても、俺はこの街を出ることが出来なかった。
今日のように、いつ招集がかかるか分からない業務。
犬の首輪のように、常に俺はこの場から一定の範囲を超えて離れることは出来なかった。
あれから三ヶ月の時間が過ぎ、こちらの生活にも、仕事にも慣れてきていた。あの五月が遠い昔のように思える。
外に広がる青空はあの時よりもきっと、青く広い。
ふと携帯電話を見つめる。ディスプレイにはメールの着信を報告する表示は映っていなかった。
思わず軽く苦笑する。
あの小さな神社の巫女に送ったメールは、一回も返ってくることは無かった。
あと一週間くらいしたら、またもう一通送ろう。そう思う。
こんな状況に不安を感じるどころか、むしろ楽しんでいる自分が不思議だった。
口元が思わず緩む。
神明みのりは、こうでなくてはならない。
キーボードを叩く音が真夏の日曜のオフィスに響く。窓から蛍光灯よりも明るい光が差し込んでいる。
世間では夏休みでも、俺には関係のない話のようだった。
今の現状を不満に思わなかったことは無いし、正直辛いと思ったことも何度もあった。
それでも。初めての仕事は、楽しかった。
キーボードを叩く音が真夏の日曜のオフィスに響く。窓から蛍光灯よりも明るい光が差し込んでいる。
真っ青な空に、一筋の飛行機雲が真っ直ぐに伸びていた。
・・・・・・・・・・・・・・
BG:部屋2
熱気をたっぷりと蓄積した部屋に戻る。手馴れた動作でエアコンの電源をつけた。
Yシャツが汗で肌に張り付くので素早く脱ぎ捨てる。
今やこの部屋には、あの時の部屋よりも長く住んでいることになってしまっている。
冷蔵庫を勢いよく開け、麦茶を一気に飲み干した。
窓の隅には、一本の観葉植物が大きくはない鉢植えに植わっている。
花は無く、20cm程のやや貧相な幹がひょろひょろと伸び、小さく葉が広がっていた。
家に帰ったら、この植物を見つめることが今や習慣になっていた。
五月躑躅の花が咲く時は、遥か遠い。
BG:ブラック
これを買ったのは六月の終わり頃。
仕事場の一人が結婚するそうで、その花束を買いに行った時の事。
見た目からして貧相なそれは決して目を引くものではなかったが、"五月"という名称には強く目を引き付けられた。
花束を買った後、その日の夜には、その植物は俺の部屋の窓際に鎮座していた。
ツツジ科、ツツジ属。常緑広葉低木。学名、Rhododendron indicum。別名、アザレア。
"五月"という名前がついていても、開花の時期は六月上旬だった。
BG:部屋2
五月躑躅を見つめている。流れる汗をそのままに、ただ静かに見つめている。
いつの間にかあの日を思い出すトリガーになっていたモノを、ただ静かに見つめている。
心に僅かな寂しさと、強い焦燥が走る。
いつか。いつかあの場所に戻るのだと、叶わない望みに焦燥が走る。
五月躑躅を見つめている。流れる汗をそのままに、ただ静かに見つめている。
微かな爆音が聞こえ、夏の夜空に大輪の花火が遠くに舞っていた。
エアコンの冷気が、少しずつ部屋に篭った陰鬱な熱気を追い払っていく。
五月躑躅を見つめている。流れる汗をそのままに、ただ静かに見つめている。
心に、焦燥が募っていく。
胸を掴まれる様な焦燥だけが、ただただ募っていく。
この焦燥を、人は恋というのだろう。
5.3
四月十六日。
『五月に戻る』
23通目のメールは、それだけを書いて送った。
これは、誓いでもあり、決意でもあった。
そのメールの返信は半日経ってから来た。
一年ぶりの言葉は実にそっけのない、神明みのりらしい返事だった。
『期待しないで待ってるよ』
その夜は、嬉しくて、少しだけ泣いた。
5.4
五月三十一日。午後3時。
一年間という長い業務を終え、業績と苦労が認められた俺に与えられたものは、本社への帰還と一週間の休日だった。
俺は既に新しい部屋を決め、引越しの日程も確定していた。
前と同じ場所は取れなかったものの、ほとんど近くに住むことになる。
あの街に戻れたのは、あの街を去った、五月三十一日だった。
BG:駅
一年ぶりの駅を出ると、あの頃と全く変わらない街並みが広がっていた。
街路樹は五月らしい新緑の緑を風に揺らしている。
五月。微かに草木の匂いと瑞々しさに生命力を感じる、青葉の季節。
見上げた空には、あの時に見た巻層雲の空が広がり、陽光は柔らかく暖かかった。
確かに、五月は一年で一番素敵な時期なのかもしれない。
そんなことを思っては軽く笑って、歩き出す。あの場所へ、歩き始める。
足取りは浮くように軽く、焦燥だけが高まっていった。
BG:道
あの時住んでいたマンションの横を通り過ぎる。あの場所まで、あと少し。
まるで子供の様に、気持ちが弾むのを感じていた。信号を待つ時間も惜しかった。
うららかな陽気は辺りを包み、花の匂いを僅かに感じ、春であることを感じていた。
そんな情景に、溶け込むように。
ピアノの音が聞こえる。
立ち止まって耳を澄まさなければ聞こえないような音色が、確かに聞こえる。
・・・聞いたことのある音色が、届いている。
風が吹いて、新緑の木々が揺れて、少しだけピアノの音が薄れた。
耳を澄まして、見えない糸を手繰るように、五月の街路を歩いていく。
歩幅は大きくなり、胸は高鳴った。
BG:神社
拝殿から流れるピアノの音は境内に心地よく流れている。
一年ぶりの神明神社は何も変わっていなかった。
足に感じる砂利の感触も、開けた境内の開放感も、風に揺れる木の音も、差し込む日差しで出来る影も、変わっていなかった。
BG:一枚絵2(主人公一人バージョン)
ピアノの音が聞こえる。
五月の空に、響いている。
桜の散った日も今や遠く、夏の日差しも遠い、曖昧な季節。
柔らかな日差しは、眠気を誘うような温もりを与え続けている。
辺りの空気には少々の湿気も感じ始め、梅雨が少しずつ近づいていた。
五月。
始まりの季節から、少しだけ走った後の季節。
新しい環境に慣れ始め、辺りのことが少しだけ広く見え始める頃。
始まってから少し。終わるまでは遠い、曖昧な期間。
そんな五月の空に、ピアノの音が響いている。
石段の感触を懐かしみつつ、背中越しの音色に耳を傾けていた。
春の陽光が一段と綺麗に明るく差し込んでいる。
柔らかい風が吹いて、服が僅かに揺れた。
ピアノの音が聞こえる。
五月の空に、響いている。
格子戸が開く時まで、あと少し。
五月が、終わっていく。
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