五月本文。

4.五月祭り
the May Festival

23日〜29日  祭りではなく、祭りの後をメインに。夜の境内。

 

4.1

 

BG:部屋

五月二十九日、日曜日。午後2時。

俺はぼんやりと椅子に座り、空の段ボールを眺めていた。

つい一ヶ月半前にお世話になったはずの段ボールは、今しがた引越し屋の兄ちゃんから受け取ったものだ。

明日にはこの大きな段ボールの中に私物を入れ、明後日には引越し屋に預けなければならない。

そして明々後日、31日の新幹線で新居へ向かうという手筈になっている。

「・・・・・・・・・・・」

俺はただ、段ボールを睨むように見つめている。

この街の六月に、俺はもういない。俺の六月は、新しい場所で仕事・・・というものになる。

ここに永住する気は無かったが、こんなにも早く、そしてこんなにもあっさりとこの街から離れるとは思わなかった。

遠い場所への配属を聞かされて既に四日が経っているというのに、未だに気持ちの整理が出来てない。

突然の衝撃に、未だに足がすくんでしまっている状態だった。思考は靄がかかったようにハッキリしない。

先を見据えることが出来ず、足が止まったままに考え込んでいる。

二ヶ月しかお世話にならなかったこの街に対し、『何かやり残したことはなかったか』と、考えている。

「・・・・・・・・・・・」

俺はただ、段ボールを睨むように見つめている。生生しい、目の前に確かにある現実を見つめている。

四角のフォルムは無音で、それでいて大声で『もうここには戻ってこないんだよ』と訴えている。

「・・・・・・・・・・・」

何か、やり残したことはなかったか。その思考だけが延々と頭の中を巡っている。

もうここには帰ってこない。心残りは・・・・・・。

「・・・・・・・・・・」

きっと、これは思考ではなく、覚悟なのだろう。

悩みながらも、既にやるべきことを考え終え、その選択を済まし、その状況を想定し、そして、結末に耐える覚悟をしているのだろう。

「・・・・・・・・・・・」

やり残したことがある。ただ一つだけ、このまま引っ越してしまうと強く強く後悔する事項が、たった一つだけ。

例えそれが痛みを伴おうとも、今やらねば、ずっと痛みを負い続けなければならない問題が一つだけある。

俺はそれを見つめている。無音で俺の背中を押すものを見つめている。

「・・・・・・よし」

思考を終え、決意をした。覚悟は今終えた。あとは、行動だけ。

長々と座っていた椅子から降り、出かける支度を始めた。

玄関を開ける。五階から眺めた空は、どこまでも高く見えた。

 

4.1b

  

本日の神明神社は、やたらと人で賑わっていた。

やたらと40代頃のオッサンが多く、神社なのにどこかの町工場を彷彿させる光景が広がっている。

そのオッサンたちは境内に敷かれた巨大なレジャーシートの上で、御神輿相手に修理のようなことをしていた。

ちらほらとオバサンたちも見受けられ、お茶などの用意に大忙しと言った所だった。

そんな神明神社の周りにはのぼりが立ち並び、『神明神社・五月祭り』と描かれた布が風にゆらゆらと揺れている。

小さい神社ながら、出店も四軒ほど並んでおり、焼きそばとバナナチョコレートとお好み焼きとビールの文字が見えた。

時折、練習と思しき太鼓や笛の音が鳴り響く。ラジカセから日本情緒溢れる演歌が爆音のように流れている。

「・・・・・・祭り?」

俺が、いつもと全くと違うその有様に呆然としていた時。拝殿の格子戸の奥から赤い袴の神明みのりがこちらに気づいた。

相変わらず、袴とスニーカーという格好には違和感を感じる。

「溝口さん、おはよー」

「よう。 ・・・で、この有様は何だ?」

「あれ?溝口さんに言ってなかったっけ?今日のお祭り」

「いや、全然聞いたことも無かったが・・・」

「うーん、言い忘れてたか・・・。えーとね、今日は見ての通りお祭りなんだよ」

「・・・五月祭り?」

神社の周囲に立ち並ぶのぼりを指して言う。みのりは素直に頷いた。

「うん、五月祭り。一応、この辺りにずっと伝承されてる歴史あるお祭りなんだよ」

みのりは、『どうだすごいだろう』といったように胸を張って言う。どこら辺がすごいのかは正直分からない。

「時は600年位前。陰暦五月のこの地域に大干ばつがあったんだよ。んで、雨乞いを始めたのが始まり・・・っていう祭りなんだよ」

相変わらず、みのりの説明は詳細がばっさりと切り捨てられた、ひどく簡潔なものだった。

「まぁ、今となっては御神輿を担いで町内を練り歩くってだけだけどね」

みのりはにこにこと笑いながら言う。

「みのり、やたら楽しそうだな」

「えー?溝口さんはワクワクしないの?お祭りだよ?日本人なら何か熱いものを感じない?」

確かにお祭りは好きだが、今見える光景はオッサンの集会。熱いものは感じ取れそうに無い。

「うーん・・・。まぁ、それなりに・・・」

「もう、溝口さんは日本人指数が足りないなぁ・・・。罰ゲームとして、後でチョコバナナ奢ってね」

「・・・いや待て、何故そうなる?」

「社会人でしょー? 大丈夫、後でお返ししてあげるからさ」

「そんなこと言ったって・・・」

俺は明々後日にはいなくなってしまうのに。

思わず出そうになった言葉を途中でつぐんだ。

「さぁってと・・・。実は私、溝口さんと喋ってる暇は無かったりするんだよ」

「何かあるのか?」

「実はね、御神輿担いで歩く時の笛演奏を任せられてるんだよ。ピアノは弾けるけど笛は中学校でやったきりだったからなぁ・・・」

そう言って、みのりは腕の袖から年季の入った横笛を取り出した。

目を瞑って横笛を吹く様は、巫女袴と相まって非常に似合っていた。辺りに心地よい高音が響く。

「そういうわけで私は練習してくるね。溝口さんは・・・、えーっと・・・」

みのりは後ろへ振り返り、ビニールシートで作業に打ち込むオッサンたちに向けて話しかけた。

「新たな人材持ってきましたー!若いからきっと力仕事でも何でも来いだと思いますー!」

素敵な紹介だった。オッサン達の視線が俺に集中する。

「・・・みのり」

ジト目でみのりを見つめる俺。帰ってきたのは笑顔だった。

「そういうわけなんで頑張ってね、溝口さん」

抗議する間もなく、みのりは拝殿へと引き返してしまった。

残ったのは俺と、そして俺に向けて視線を向けるオッサン十数名。

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

俺とオッサン達の微妙な沈黙が流れる。このまま帰ってしまおうかどうかの選択肢が俺に浮かんだ。

「・・・・・・・・あー・・・その・・・」

「・・・・・・・溝口春樹です。・・・よろしくお願いします」

こうして、この街での最初で最後の時間外勤務の時間が始まってしまった。

「ほほぉ、溝口君。なかなかいい体してるねぇ」

そんなことを言われても、正直嬉しくなかった。

  

・・・・・・・・・・・・・・・

  

オッサンはタバコを片手に、満足げに。

「ふっ。なかなかよかったぜ、春樹」

「ああ・・・。来るんじゃなかった・・・」

唯一の若手ということで、俺は散々力仕事を任されてしまった。

俺より屈強な体をしたオッサンがいるというのに、『若いから』の理由で辛い仕事は全て俺。

これからの自分の仕事もこんな感じなのかもしれないと思うと気が沈んだ。

しかしながら、努力の甲斐があってか、最初は埃にまみれていた御神輿は今となっては立派なものへと姿を変えていた。

自分が手伝ったこともあってか、普通の御神輿よりも一層立派に見えてしまうのだから、俺も案外安直だと思う。

境内にはオッサンとオバサンのざわめき、太鼓の音、そして拝殿からはみのりの吹く笛の音が響いている。

ピアノの音色とは程遠い雑音は、不思議なくらい耳に心地よかった。

風が吹いて、新緑の木が揺れた。陽光はのどかで暖かく、差し出された麦茶が美味しかった。

夕暮れが近づいている。

 

・・・・・・・・・・・・・・

  

BGM;ぴーひゃらどんどんな音楽(適当に)

  

五月祭りは、まず神明神社の宮司の挨拶から始まる。

ちなみに宮司の名前は神明水穂。みのりの叔母であり、はっきり言って美人だった。

宮司が簡単に五月祭りの歴史などを話した後、メインの御神輿へとプログラムは移行する。

全長1kmの道のりを、半纏とねじり鉢巻の熱いオッサン達が御神輿を担いで練り歩く。

和太鼓と笛の音。時折ラジカセから大音響を放ちながら、やかましい集団となって街中を闊歩するのだ。

 

まさか、御神輿と一緒に歩くなんてことがこの街であるとは思わなかった。

俺はやたらオッサン達に気に入られ、そのままなし崩し的にこの行列へ参列している。

ちょうど隣では、相変わらずの巫女袴を着たみのりが横笛を軽快に鳴らしていた。

「演奏上手いな、みのり」

みのりは横笛を操作したまま、目だけで答える。流し続ける音色は変わらない。

「練習したのか?」

笛を操作する指は速やかに動いたままに、頷く。

「・・・・・・・・・」

熱いオッサン達の『ワッショイワッショイ』といった声が聞こえる。

「・・・みのり。今笑わせられたら物凄い困るよな?」

みのりは何かを感じ取ったらしく、首をオーバーに横に振った。

しかしながら、その反応こそが『罠にかかった』も同然だと言うことは気づいていないらしい。

「・・・ふとんがふっとんだー」

ぷぴー!!

明らかに音の外れた高音が響いた。みのりは笛から放し、

「・・・溝口さんの馬鹿っ!」

いい具合のチョップが飛んできた。そしてまた、演奏へ素早く戻る。

「・・・すまない、みのり。どうしてもやってみたくなったんだ」

半笑いで言う俺に対し、みのりの視線はたっぷりとした怒りを含んでいた。

  

・・・・・・・・・・・・・・

  

笛と太鼓の大音響を撒き散らし、男達の掛け声を響かせながら、僅か二ヶ月間しかいられなかった街並みを歩く。

通る道の殆どは知らない景色で。本当に僅かな時間しかこの街にいなかったのだと実感する。

夕日の沈みきった黄昏時。少しだけ胸に切ないものがよぎった。

 

・・・・・・・・・・・

  

夜の神社。樽酒の蓋を木槌で叩き割る軽快な音と、巻き起こる拍手。

御神輿で練り歩いた後、五月祭りは最後のイベントである酒盛りへ移行する。

神明神社の境内にて、先程よりも騒がしい宴会が開始されていた。

これも祭りのうちの一つらしいのだが・・・。明らかにこれが目的のようなオッサンもちらほらと見える。

レジャーシートの上には、日本酒やビールの酒類、寿司、オードブル等々の料理が並んでいた。

俺もその場の流れのようなもので、半ば無理矢理にその席に座らされていた。オッサン達に勧められるがままに日本酒を飲む。

自分は今日、何かを決意してここにいるんじゃないかという思いがアルコールによって消されそうになった頃。

「溝口さん、溝口さん」

そんな時、みのりが少し離れた所から手招き。オッサン達から囃し立てるような口笛の音が響いた。

宴会のレジャーシートから離れ、拝殿の方へ。

「みのり、どうした?」

「溝口さん、どっかで夕御飯食べに行かない? 今日は私の家、皆この祭りにかかりっきりなんだよ」

「ん?食べ物だったら宴会の席にたっぷりとあるぞ?」

「うーん、そうなんだけどね・・・。あの席さ、オジサンオバサンしかいないじゃん?話し相手がどうにもいないんだよ」

再度、レジャーシートの上の面々を見ると、確かにみのりと同年代の子は一人も見当たらない。

オッサンの一人がカラオケマイク片手に何かの曲を歌いだしている。周りはそれに手拍子を送っていた。

その様にみのりは苦笑を浮かべている。

「・・・ね?そういうわけだから、どこか食べにいこう?」

心のどこかで誰かが『これが最後だから』と呟く。

「・・・・・・そうだな。どこか行くか」

月の綺麗な夜。照明で照らされる神社の境内には喧騒が響いていた。

 

4.2

  

熱い緑茶は喉を通り、僅かな苦味と風味を残していく。

神社近くの回転寿司屋は満員御礼といった状況で、賑やかな喧騒に包まれていた。

そんな中、カウンター席に座っている俺とみのり。

巫女袴のままだったみのりは周囲から奇異の視線が集中している。本人はさっぱりと気にしてはいないようだが。

そんな中。みのりの横に白くそびえる塔が、俺を威圧するようにその存在を誇示していた。

「・・・・・・・・・みのり」

「うん?何?」

その塔の建築士である神明みのりは、喋りながら更に流れてきた鉄火巻きの皿を手に取っていた。

「・・・さっきの話は無かったことにしないか?」

「ええーっ!? 『給料入ったから奢ってやる』って言ったの溝口さんでしょ?だから私、こんなに・・・」

みのりは築き上げた塔を指差す。皿20枚で構築された塔はどこまでも威圧的だった。

「みのり、何でこんなに食えるんだ・・・」

「甘いものとお寿司は別腹なんだよ」

平然と言い切る。そんな単純な話なのかは分からないが、事実は目の前に立ちそびえていた。

「駄目だよ溝口さん。男なら自分の言ったことに責任を持たないと」

「・・・分かった。支払ってやるから安心しろ・・・」

「えへへ・・・。ありがと」

やたら嬉しそうにするみのりとは対照的に、俺は財布の中身に危機感を感じていた。さらば諭吉。いつかまた会えたらいいな・・・。

「俺の社会人となっての初給料なんだ。そのことをわきまえて、噛みしめるように味わえよ?」

「あ、そうなんだ?溝口さん、おめでと」

祝いながらも、22皿目へと手を伸ばすみのり。今度はネギトロだった。

「・・・・・・マグロばっかり食べてて飽きないのか?」

「全然」

きっぱりと一言で答えきられる。醤油をつける時点でこんなに笑顔なヤツを見たのは初めてだと思う。

「ううーん、今私は最高に幸せだよ・・・」

「単純だな」

「いいの。幸せってものは案外単純なものなんだよ。・・・あ、溝口さん。この"漬けマグロ"と、"びんとろ"の注文お願いね」

「そのくらい自分で頼めって・・・」

そう愚痴りながらもしっかりと注文してしまうあたり、みのりとのやり取りにいつの間にか慣れきっているのを感じた。

家族連れの子供の声、店員の粋な声、店内音楽。回転寿司屋はほどよい喧騒の中にあった。

隣の巫女は延々とマグロを食べ続け、隣の男を呆れさせている。

その男が『これで最後だから』と悲壮な感情を抱いているなんてことは、店員も客も、そして隣の巫女ですら知らない。

平和で和やかな店内と裏腹に、俺はどこか心の奥で焦燥感を感じていた。

いつ言うべきか、どうかを。

・・・何故、『この街を出る』という言葉をみのりに言うだけのことに、ここまでの覚悟がいるのか。

気づいていながら、未だに俺は目を背けている。

自分の度胸の無さに落胆しながらも、目の前では皿に乗った寿司が回り続けていた。

緑茶が熱く、そして苦かった。

  

・・・・・・・・・

  

「これで借り4つ、だね」

寿司屋から出た後の帰り道。食事で火照った体に夜の冷気が心地よかった。

夜九時の住宅街はすっかりと静寂へと落ち着き、足音さえも響き渡る。

結局、支払いの額はとんでもない数値を叩き出していた。店員の首を傾げる動作が記憶に新しい。

レジで会計を済ます際に、『これでみのりへの恩は返せたのかも』と姑息な考えが浮かんだことが情けなかった。

「借り4つ?」

「うん。借り4つ。溝口さんにお金のことでお世話になった回数だよ」

「俺、そんなにみのりに奢ったっけか?」

「えーと、お茶菓子を二回買ったでしょ?あと夕御飯奢ってもらって、さらにさっきのお寿司屋さんで4つだよ」

そんなこともあったな、と思う。たった数週間前のことが何故か遠い思い出に感じる。

「くっ・・・。たった一ヶ月で、俺はそんなにみのりに貢いでしまっていたのか・・・」

「あははっ。意外に溝口さんって太っ腹だったね。もっとケチケチした人だと思ってたよ」

「意外は余計だ。こうして俺は太っ腹だろう?」

「うん、そうだね。・・・ありがと」

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

「・・・みのり」

「うん?」

「"ありがとう"で終わらすな。"借り"なんだから、返すべきだよな?」

「・・・あはは、バレたかっ」

踏み倒す気まんまんだったみのりは悪意ゼロの笑顔を浮かべている。この笑顔に騙されて俺は四度も貸しを作ってしまったのかもしれない。

「仕方ないなぁ。私もそろそろアルバイトのお金入るし、ちょっと考えてあげるよ」

「よし。期待してるぞ。俺は高級焼肉が食べたい」

「こら溝口っ!社会人とバイトの給料は天地の差なんだよ?私を泣かす気ー!?」

「あー、分かった分かった。えーと、そうだな・・・」

飲食店を思い浮かべる。みのりと行って楽しそうな所をピックアップし、その情景を想像して。

・・・もっと根本的な問題を思い出す。その情景はもう無いのだという、根本的問題が目の前にあったということを。

浮かれていた気分が一気に沈着していく。この間もシリアスな現状とタイムリミットは刻々と経過しているのだから。

「・・・・・・・」

「溝口さん、安いのにしてよね? いっそこのと、"肩叩き券"みたいのでもいいよ?」

「・・・なぁ、みのり?今日はこれからどうする?」

「うん? ・・・えーと、そのまま帰る予定だけど」

・・・きっと、次に紡ぐ言葉が、結末へのワンステップだと感じている。

「神社・・・行かないか? みのりのピアノが聴きたい」

静寂が響く夜の住宅街。足音だけが響く二人だけの世界に俺の声も響いた。

みのりは頭に疑問符を浮かべながらも、簡単に了承する。

二人の足先は神社へと向かい、歩み進んでいく。

見上げた夜空には明るい上弦の月が浮かんでいる。

二人を照らす月光はどこか神秘的で、明るかった。

  

・・・・・・・・・・・・・・

 

4.3

 

BG:夜神社(写真)

 

「みんな、もう帰っちゃったね」

俺達が帰ってきた頃には宴会は終了していた。あまりの掃除の徹底ぶりに、宴会の痕跡は完全に払拭されていた。

静かな境内に、二人が砂利を踏む音が響く。涼しい風が木を揺らして微かな音が流れる。

辺りはひんやりとした空気を帯び、みのりが小さく『肌寒いね』とこぼした。

いつもの拝殿の石段の上には、スポットライトのように一つの照明が暖色の光が注がれている。

辺りが闇に沈む中、光の当たる石段上だけが光点のように浮かび上がっていた。

淡く広がる光は幻想的な雰囲気を辺りに醸し出している。いつもの石段上だと思えないくらいの雰囲気は違っていた。

「ねぇ溝口さん。このライトって何のためにあると思う?」

暖色のスポットライトの下、みのりは笑顔で問いかけた。

「・・・さぁ? 夜でもお祈りでも出来るためか?」

「残念。正解は全然違うんだよ」

「?」

疑問符を浮かべる俺の前で、みのりは愉快そうに口元をにやけさせながら言う。

「それはね・・・・・」

言って、みのりはその場でくるりと一回転。長い袖がふわっと舞った。

そして、回転し終えた後に、びしっと指を指す決めポーズと共に、

「ロマンティックだからだよ!!」

断言してしまった。

みのりは北海道のクラーク像を彷彿とさせるポーズで俺に向けて『どうだ!決まったろう?』といった視線を向けている。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・え? もしかして、本当の話なのか?」

「うん。本当の話」

嘘の気配ゼロで言い切るみのり。少しだけ頭が痛くなってきた。

「私は好きだよ、このライト。とっても暖かい感じがするし。それに・・・何かいいよね、こんな雰囲気」

みのりは見上げて天井に設置されていた照明を見つめた。

辺りの闇と上空の光源によって、みのりの顔にはコントラストの強い前髪の影が映っている。

俺はそれを横から見つめる。演劇のステージ上のような強いスポットライトは確かにロマンティックなのかもしれなかった。

「・・・さてっと。それじゃ弾こうかな。溝口さん、リクエストは?」

「特に無い」

「相変わらず、弾き甲斐があるんだか無いんだか分かんないなぁ・・・」

肩をすくめて、"やれやれ"といった表情のみのり。スニーカーを脱いで、格子戸を開けた。

「うわ。真っ暗だ・・・」

部屋の中は格子戸越しから光が差しているものの、影の部分はくっきりと闇に覆われていた。

「確かに暗いな・・・。みのり、こんなに暗くてもピアノって弾けるものか?」

「うん。まぁ、指が憶えてるよ」

まるでピアニストのような言葉を話し、巫女服のみのりは格子戸の中へと入っていく。

SE:がつっ

「んきゅぅっっっっ!!!」

鈍い音と、みのりの悲鳴。どうやら、ピアノの足が足にぶつかったらしい。

「お、おい、みのり・・・大丈夫か・・・?」

「・・・っく、つぅぅ・・・。ゆ、油断したぁ・・・。だ、大丈夫。すっごい痛いけど・・・」

暗くて見えないが、恐らく今のみのりは涙目をしているだろう。

しばらくすれば、重い椅子の動く音と鍵盤の蓋を開く気配がした。

「そ、それじゃ、弾くよー・・・」

「お、おう」

 

BGM:ピアノ系

ピアノが響き始めた時、音に舞う光の粒子が見えた気がした。

一瞬で辺りの雰囲気は音色と共に変わっていく。

俺は立ち上がったままに、夜空に浮かぶ月を見つめている。

この街に来てから・・・みのりに会ってから、空をよく見るようになったのだと今更に気づく。

上弦の月は優しい光を湛え、空気は凛としたままに動かず、ピアノ以外の音は存在しなかった。

この神社だけが世界から取り残されたように、石段上のこの世界だけが音を出し、光を放っている。

「・・・・・・・・」

俺はただ、五月の夜空に浮かぶ月を見上げている。ただ、見上げている。

この夜を、今の瞬間を憶えておきたかった。

月の明るさ、雲で少し霞む光。

風の涼しさ、柔らかく撫でるように吹く風。

そして、ピアノの音。偶然出会った女の子の弾く、安らぎの旋律。

『もう一度』が二度と無い、最後の感触たちを憶えておきたかった。

目を瞑れば視界から物は消え、音だけがクリアに聞こえてくる。

石段上、光の下。狭くて幻想的なこの世界の中、音色は深く心に響いている。

「・・・・・・・・・」

心残りはまた一つ消えた。この今を、この感触を未来の俺はきっと思い出せる。

だから、心残りはあと一つだけ。伝えたい言葉が、一つだけ残っている。

きっと、みのりはいつものように無味乾燥に反応するだろう。そんな結末を確信的に、皮肉的に予想しながら。

  

月を見ていた。五月の空に浮かぶ月を見上げていた。

心は不思議なほど穏やかで、旋律はどこまでも優しかった。

この音色が終わり、格子戸の開く時を、俺はゆっくりと待ち続けている。

この音色が終わり、決別の瞬間を、俺はゆっくりと待ち続けている。

 

・・・・・・・・・・・・・・  

 

やがて、小さな世界の演奏会は終了し、重たい椅子のずれる音が聞こえる。

格子戸が音を立てて横にスライドし、中からいつものみのりが現れた。

「みのり」

「うん?」

二人を明るい暖色のライトが照らしている。

一呼吸。

「俺は明後日、この街を出ることになった」

この瞬間、世界の音と時間の全てが止まった。

  

「・・・・・・・・・え・・・?」

  

無味乾燥な答えが返ってくると思っていた。『へぇ、そうなんだ。頑張ってね』程度の答えが返ってくると思っていた。

予想は外れ、みのりは悲しげな表情で俺を見つめている。まつ毛が僅かに震えていた。

  

この予想外の反応に、この悲しげな表情に、俺は喜ぶべきなのかどうかを悩んでいた。

視界がぐらりと揺れ、心が締め付けられるような、そんな表情を見たことは喜ぶべきなのか。

みのりは俺を見つめている。真意を求めるように、視線を俺に向けている。

  

その日は月が綺麗だった。風が心地よかった。

スポットライト下、石段上の世界。これから、この一ヶ月の出来事が、思い出に変わろうとしている。

  

・・・・・・・・・・・・・・

 

BG:一枚絵2夜

 

石段はひんやりとした感触を伝えている。

上空のスポットライトから放たれた光はシャワーのように二人に注がれている。

みのりは無表情に石段の先に続く歩道を見つめている。まるで、先週の雨の日のように。

「・・・溝口さん。引越しって、いつ決まったの?」

静かな境内にみのりの声が響いた。

「先週の火曜日。もう研修が終わったから、配属先が決まったんだ」

「そうなんだ。・・・おめでと」

呟くような祝いの言葉に、弾んだ音韻は聞こえなかった。

「・・・引越しする日はいつ頃になるの?」

「明後日の新幹線で出ることになってる。荷物は明日には業者に渡すから、恐らく明後日は午前中に出ると思う」

「・・・・・・早いんだね。・・・引越しのお祝いも出来そうにないね」

「・・・そうだな」

沈黙が辛かった。自分でも分からないくらいに、一語一語話す度に胸が軋み、話さない時間は胸が痛んだ。

先週に聞かされ、今までの時間をかけて覚悟をしてきたはずなのに。

五日間かけて固めてきた心のガードは、紙のように簡単に剥がれ始めているのを感じる。

「・・・新幹線かぁ・・・。やっぱり、遠いところに行くの?」

俺は、ここから遠い遠い地名を話した。とても簡単には戻ってこれないような、そんな遠い地名を。

「・・・遠いね・・・」

「そうだな。・・・確かに、遠いな・・・」

遠いのは果たして何の距離なのだろう。そんな漠然として・・・少しだけ詩人じみたことを思った。

胸は静かに静かに軋んでいる。

みのりは無表情に俯いたままだった。小柄な肩に暖色の光がコントラストを作っている。

手を伸ばさずにも届く距離。手を伸ばせば反対側の肩に届く距離。そんなことを考えては、その考えが浮かぶことに疑問符を浮かべる。

この五センチの遠い距離は、明後日には数百キロの距離になる。

「みのり」

「・・・うん?」

「もう俺は」

心の何処かで『言わなきゃいいのに』という思いが走る。

それでも、結末として、事実として在るものだから、いつか言わなければならない言葉を紡ぐ。

 

「・・・俺は、もうこの街には戻ってこない」

 

みのりが僅かな一瞬、息を呑むように止まった。

これで、俺のこの先のラインは引かれてしまったのだろう。この先に何があっても結末は同じなのだろう。

「・・・そっか」

呟くような、微かな声と共にみのりは顔を上げ、俺を見た。スポットライトがみのりを照らしている。

それはとても幻想的な光景で。現実感が薄い、そんな世界で。

そして、みのりは薄い笑顔を浮かべて。

 

「そっか・・・。もう、会えないんだね」

 

俺は、こんなに儚い笑顔を知らなかった。こんなに辛い笑顔を知らなかった。

胸を直接握り潰されるような痛み。視界が少しだけ光度を上げた。

視線がみのりと重なる。その瞳に、俺はどんな顔で映っているのだろう。

お互いの顔がすぐ近くにある、遠い距離。これからもっと遠くなる、遠い距離。

風が通り抜ける、静寂が響く世界で。俺は、これから訪れる寂しさを直視している。

  

  

伝えたいことがあった。

  

「・・・みのり」

「うん?」

「この一ヶ月は楽しかった」

「うん」

「色々あったよな」

「うん」

「・・・みのりは楽しかったか?」

「うん」

「俺はきっと、この一ヶ月を忘れないと思う」

「うん」

「・・・ありがとう」

「・・・うん」

一語一語を、何かを切り捨てるように言う。

「・・・・・・・」

「・・・・・・・。 ・・・何だか、本当にお別れの言葉みたいだね」

「・・・そうだな」

互いに、この"らしくなさ"を軽く笑う。雰囲気が少しだけ和らいだ気がした。

 

伝えたいことがあった。

 

「なぁ、みのり」

「うん?」

「・・・・・・・俺は」

BG:ホワイト

上弦の月が綺麗だった。風の涼しさが心地よかった。辺りの闇は静寂の中にあった。

そんな中、俺の頭の中は真っ白で、口が勝手に動いているような感覚で何かを喋っていた。

ただ、伝えたいことがあって、それを伝えたかった。その先に何があるとか、そういう理由じゃなくて、とにかく伝えたかった。

この感情を、寂しさを、痛みを、感謝を、そして、暖かさを。

 

だから。

この時言った愛の告白を、俺は憶えていない。

  

4.4

 

短い沈黙は永遠のように長かった。

やがて、終始固まりっぱなしだったみのりは、視線を境内へ戻す。

悲しげなその瞳に、胸が苦しくなる。

「えっと・・・。私、そういうこと言われたの初めてで、もう頭の中真っ白で、どう言ったらいいのか分からないけど・・・」

みのりは自分を落ち着かせるように、小さく深呼吸をした。

「ずるいよ、溝口さん」

告白に対し帰ってきた言葉は、イエスでもノーでもなく、非難だった。

「自分勝手だよ。もう戻って来ないのに、もう会えないのに、言いたいことだけ言って・・・。

 どこにも私の気持ちの置き場が無いよ・・・。 ・・・一方的過ぎるよ。卑怯だよ・・・」

「・・・ごめんな、みのり」

「・・・うん」

「・・・最後だから、もう会えないだろうから、言っておきたかったんだ」

「・・・・・・うん」

不思議なくらいに、流れる沈黙は優しかった。

「・・・私はいまいち溝口さんが好きだかどうか分からないよ。そういう風に溝口さんを見てなかったから・・・」

実質的にはふられた言葉だったはずなのに、俺の心はどこか落ち着いていて。次の言葉を、ゆっくりと待っている。

「けど、きっと・・・。いなくなったら寂しいと思う。辛い気持ちになっちゃうんだと思う・・・」

みのりの悲しげな声に胸が痛み、そして喜んでいる、そんな矛盾した感情が生まれる。

「うん・・・。そう・・・。寂しくなっちゃうんだと思う・・・」

みのりは視線を俺に向ける。吐息が届くような近い距離で、俺を見つめる。

「寂しいよ、溝口さん。 ・・・でも、お仕事頑張ってね」

胸に刃が刺さるような笑顔だった。

きっと、これがみのりの本当の気持ちなのだろう。こんなにも矛盾した言葉が、みのりの気持ちなのだろう。

視線は重なり続ける。頭がぐらぐらと揺れた。

「・・・ごめんね、溝口さん」

何に対して謝っているのか、考えられる余裕もなかった。

鼓動の音が聞こえる。五月の月夜には沈黙が響いている。

風の感触も、夜のぬくもりも、今はただ遠く。石段の上だけが世界の全てだった。

  

・・・・・・・・・・・

 

僅かな長い沈黙は、肩越しに感じたぬくもりで破られる。

いつの間にか、みのりは体を預けるようにもたれかかっていた。

BG:一枚絵3

BGM:変更(?)

「・・・こうしてると、何だか恋人同士みたいだね」

静かな声だった。

「私、やっぱり溝口さんが好きかどうかなんて分からないけど・・・」

表情は見えない。左肩、左腕に伝わる体温だけが世界の全てだった。

「こうしていると、幸せだなぁ・・・って思えるよ。心がね、じわーっと温かくなるんだよ」

みのりは軽く笑って、更に寄り添う力を増した。肩に感じる圧力が今はただ心地よかった。

「不思議だよね。たったこれだけのことなのに、私、ずっとこうしていたいと思っているんだよ。すごく幸せだと思っているんだよ」

俺も、そう思っている。

「溝口さん、もう会えないんだよね・・・」

「・・・ああ」

少しずつ、今まで固めていた意志が溶けていく。この心地良い時間に、決意は少しずつ方向を変えていく。

「なぁ、みのり」

「うん?」

「また・・・会いに来てもいいか?」

「・・・・・・もう帰ってこないんじゃなかったの?」

「気が変わった」

「・・・もう、適当だなぁ・・・」

情けない事は分かっていたが、これが今の本心だった。みのりは呆れるように軽く笑う。

「ねぇ、溝口さん。次に会えるとしたら・・・いつ頃になるのかな?」

「・・・分からない。一ヵ月後か・・・あるいは一年後なのかもしれない」

与えられた業務は、一年間の間そちらに住み込み、トラブルの際には保守にあたるというものだった。

例え日曜であっても、トラブルさえ起きれば出頭が下される、束縛的な業務。

みのりにそのことを伝えると、小さく溜息をもらした。

「・・・私、そんなに待ってられないと思うよ。そんなに時間が空いちゃったら、私と溝口さんの関係はゼロに戻っちゃうと思う。忘れちゃうと思う・・・」

みのりは事実を正直に話した。

「私、たぶん、溝口さんを想い続けられないと思う。私、きっと、溝口さんのことをそこまで好きになれていないと思う」

「それでもいい」

「・・・保障は出来ないよ。もしかしたらすっかりと忘れちゃうかもしれないよ」

「俺は憶えてるよ」

「・・・・・・溝口さんは一途だなぁ・・・」

肩越しの体温が少しだけ動いて、触れる面積は更に広がった。

肌寒い夜の外気の中、その部分だけが暖かかった。

「・・・きっと私、今、ものすごく幸せなんだよね。私を選んで想ってくれる人がいるって、幸せなことだよね・・・」

みのりはゆっくりと深呼吸をした。肩越しからその感触が伝わってくる。

「・・・今ね、私も溝口さんにまた会いたいと思ってるよ。明日はどう思うか分からないけど、今はそう思ってる。・・・ごめんね、溝口さん。こんな変な子で」

「・・・構わないさ」

「・・・・・・溝口さんは優しいなぁ・・・」

二人の間に流れる沈黙は優しかった。時間は緩やかに流れ、ずっとこの時が続いていくような気がした。

「溝口さん。・・・私、頑張ってこの感触を憶えているようにするよ。今の気持ちを、忘れないようにするよ」

 

この瞬間に、俺とみのりとの不思議な関係は変わったのだと思う。

つまり、他人以上、友達未満で・・・・・・恋人。

他人よりは互いを知っていて、友達といえる程には知らなくて。それでもお互いをどこまでも信じられる、そんな奇妙な関係。

  

BG:月

その日は月が綺麗だった。風が心地よかった。

スポットライト下、石段上の世界。これから、この一ヶ月の出来事が、思い出に変わろうとしている。

忘れてはならない思い出に、変わろうとしている。

  

肩越しのみのりの体温だけが、やけにリアルだった。

いつまでも続くような五月の月夜の下。

体温だけが、現実的だった。

 

 

五月が、流れていく。