五月本文。
1.五月病 the depression that appears among freshmen in their first few months of college life |
(5月1日〜7日) 1日が日曜日。3,4,5がゴールデンウィーク。
出会い。及び、仲良くなっていくシーン。
≫境内配置
主人公:真ん中に座る
みのり:柱に寄りかかっている
1.1 : みのりん邂逅
1.2 : 3日は挨拶のみ、
1.3 : 4日5日でトーク。
1.
BG:神社へと住宅路。
ピアノの音が聞こえる。
五月の空に、響いている。
BGM:ON
桜の散った日も今や遠く、夏の日差しも遠い、曖昧な季節。
柔らかな日差しは、眠気を誘うような温もりを与え続けている。
辺りの空気には少々の湿気も感じ始め、梅雨が少しずつ近づいていた。
五月。
始まりの季節から、少しだけ走った後の季節。
新しい環境に慣れ始め、辺りのことが少しだけ広く見え始める頃。
始まってから少し。終わるまでは遠い、曖昧な期間。
そんな五月の空に、ピアノの音が響いている。
1.1
五月一日。日曜日。午後4時半。
マンションの5階にある自分の六畳一間の部屋には、夕焼けの光が差し込んでいた。
部屋の壁にはスーツとYシャツがハンガーに掛けられている。
小さめな冷蔵庫や炊飯器。電子レンジなども、狭い六畳の部屋に並んでいる。
つまる所、”一人暮らしの社会人の部屋”という物そのままだった。
そんな部屋の隅っこで、椅子にだらしなく全身を持たれかけて座っているのが俺だったりする。
溝口春樹(みぞぐち はるき)、22歳。いわゆる新入社員。今年度から社会人になりました。・・・なってしまいました。
「・・・あ〜、暇・・・」
一人暮らしを始めて一ヶ月。いつの間にか独り言が多くなっていた。
この行動に深い意味は無い。別段、寂しさといったセンチメンタルな理由ではない。
部屋に帰った後に『ただいま』と言う習慣をつけていた所、いつの間にか癖になっていただけだったりする。
「・・・別段、やることもないしなぁ・・・」
横に視線をずらせばテレビゲームの筐体。
専ら、学生の時の休日はコイツと遊んでいたものの、こっちに来てからは電源を入れる回数がめっきり少なくなっていた。
すっかりと熱が冷め切ってしまい、今や無用の長物になってしまっている。
「・・・外行って、金使うのも何だしなぁ・・・」
会社に勤めるようになって一ヶ月経つが、実は未だに給料を貰っていなかったりする。
その訳は、4月の分を5月末に貰う・・・という至って普通な理由だったりする。
引越しの時点で親から支援金をたっぷりと頂いていたが、必要な物を揃えたりしていたら相当削れてしまっていた。
さすがに、毎日パンの耳で過ごす生活には遠いものの、贅沢が出来る財政でも無かった。
「・・・・・・・・・・・・」
絶妙な行動の板バサミの中、ぼんやりと天井を見つめる。
夕日に照らされ、淡い褐色を帯びた部屋。外からのかすかな音と時計の秒針音だけが響いている。
「”時間があったら、何かしなくちゃいけない”って思うのは、日本人の悪い癖って言ってたよなぁ・・・」
学生の頃の旅行で聞いた言葉は、誰に届くわけでもなく部屋に漂っていた。
結局。
五分ぐらい経った後に、冷蔵庫の中が寂しくなっていることを思い出し、外に出ることにする。
部屋を出て、ドアに鍵を閉めた後。
何も落ち込む要素もないのに、深いため息をついていた。
五階から見える街の景色は少々寂しげに見える。
階段を降りる際の硬質な足音だけが、マンション内に響いていた。
1.1b
マンションを出ると、強く柔らかい風が体に当たってくる。
茜色に染まる空。情緒の理解のない俺でも『綺麗だなぁ』程度は思える。
駅へと続く道沿いには、日曜なのに仕事帰りのサラリーマンや地元の主婦などがちらほらと見えた。
そんな、よくある光景に溶け込むように、近くのスーパーまでの道のりを歩き出す。
「(今日は何を作ろうか・・・?そーいや、鶏肉が少し残ってたっけか・・・)」
頭の中で、”本日の献立”と、”今週一週間の献立”を考えながら歩いていく。
こんな構想も、引越ししたての頃は新鮮だったものの、一ヶ月も過ぎれば日課に過ぎなくなってしまっていた。
申し訳程度の街路樹は、五月らしい新緑の緑を風に揺らしていた。夕日の赤が混じり、独特の色を映している。
夕暮れ時にも、うららかな陽気は辺りを包んでいる。何かの花の匂いを僅かに感じ、春であることを感じていた。
BGM:OFF
そんな日常に、溶け込むように。
BGM:ピアノ (kakera)
どこからか、ピアノの音がかすかに聞こえた。
耳を澄まさないと聞こえない程の、僅かな音が響いている。
「・・・・・・・・・」
きっと、理由なんて程の物は無かった。
足を止め、耳を澄まし、音源と思われる方向に足先を向けたことに、深い理由は無かった。
ただ単に、『他にやることもないし』というだけの、自分でも情けないくらいのネガティブな感情による行動だった。
ピアノの音に誘われて・・・というフレーズを自分に投影させて、詩人ぶりたかったのかもしれない。
理由は何であれ、進む足はピアノの音へ向けて進んでいった。
ただそれだけのことで、これからの日々が少しだけ変わることなど、一片も思わぬままに。
風が吹いて、新緑の木々が揺れて、少しだけピアノの音が薄れた。
耳を澄まして、見えない糸を手繰るように、夕暮れの街路を歩いていく。
1.1c
しばらく歩いて、目の前に現れたのは一軒の神社だった。
マンション等の集合住宅の立ち並ぶ中に、ぽっかりと空いた穴のような場所。
あまり古さを感じない小奇麗な拝殿が小さく建ち、その周りには大きな木が一本。
その周囲に薄く展開するゴミ一つ無い綺麗な地面には、自転車の轍が薄く見える。
目を凝らすと、棒か何かで地面に線を引いた跡も見えた。きっと、近所の子供の遊び場にもなっているのだろう。
その他には、水の流れていない手水舎が小さく置いてある程度。
街の中の小さな神社。ピアノの音は、明らかにその拝殿の中から流れていた。
やさしい音色はさながらBGMのようで、その場がドラマのワンシーンを切り取ったような感触すら覚えた。
ピアノと神社。考えてみればかなりのミスマッチな気がするが、案外合うものなのかもしれない。
未だピアノの流れる社殿へ近づく。細かい砂利を踏む音がやけに騒がしく感じた。
近づけば近づくほど音量は大きくなっていく。
最初はラジカセかと思っていたが、今響いている音は明らかに本物のピアノの音色だった。
石段を上り、賽銭箱の前へ立つ。やけに真新しい柱に夕日が影を落としている。
そのまま、格子戸の先を覗き込んだ。
CG:ピアノみのりん夕日仕様(一枚絵・今後多用)
BGM変更。
夕日が格子状に差し込む社殿の中で、女の子がピアノを弾いていた。
決して広くは無い部屋には、小さな神棚と大きなピアノが一台。
部屋の殆どの場所はピアノに占拠されている状態だった。
そのピアノ越しに、この音色を響かせている張本人の女の子の顔が見える。
おそらく高校生くらいの女の子は、目を閉じて薄く口元を微笑ませながら鍵盤を叩いている。
着ている服が巫女用の袴だったからこそ、ピアノの違和感が一層増している気がした。
没頭しているためか、その子は私に気づくことは無いままに演奏を続けていく。
目の前のピアノから流れる音色は、どこか物悲しく、優しく周囲に響いている。
「・・・・・・・・・」
綺麗だ、と素直に思った。
その子が、というわけでなく、この状況、音楽、光。全てが上手く綺麗に組み合わさって、一枚の絵画のようになっていた。
この格子戸を越えた先は別の世界ではないかと思えるくらい、強烈な精彩を帯びた情景が、そこにはあった。
「・・・・・・・・」
気がつけば一曲が終わっていた。
さすがにずっと覗き込んでると怪しい人に見えるので一、二歩下がる。
しかしながら、このまま帰るのも勿体無い気分がする。
クラシックに造詣のない自分だが、たまには女の子の弾くピアノに耳を傾ける・・・というのもいいかもしれないと思った。
「よっ・・・と」
石段に座り込み、ぼんやりと空を見上げながら、背中越しに送られてくる音色を楽しむ。
夕焼けの光は地面に長い影を落とし、辺りを赤く染め上げている。
風が僅かに強く吹き、社殿の隣の木がおとなしく揺れていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
ピアノの曲は、俺が来た後から数えても五曲目を迎えていた。
つまりは、それだけの間ずっと座り続けているわけなのだが。
「・・・暇だなぁ、俺・・・」
落ち終えそうな夕日を見つめ、黄昏る。
そろそろ帰ろうと思ったところで、五曲目が終了した。
椅子の動かす音が鈍く響いて、小さく足音が聞こえる。どうやら演奏も終わりなようだ。
「・・・・・・・・・・・」
おそらく、あと数秒後には女の子と鉢合わせるだろう。
いきなり石段に男が座っていたら、驚くか怯えるかもしれない。
そう思うと、さっさと御暇すればよかったのだが、タッチの差で女の子の方が早かったようだ。
格子戸が開いて、女の子が出てくる。
「・・・わっ」
小さく驚いた袴姿の女の子は予想通り、若干不審そうに、座っている俺を見下ろしていた。
「(・・・まずい・・・)」
≫選択肢ポイント
決して不審者ではない。そう伝えたかった俺は――――
1.褒めちぎる!
2.ダッシュで逃亡!
3.
思わず拍手をしていた。
とにかく、いい演奏だったのだと言っておきたかったし、この場から自然に逃げたかったというところもある。
SE:ぱちぱちぱちぱち
「・・・え?え?」
女の子はきょとんとした顔で首を傾げる。
「いい演奏だったよ」
正直な所、音楽の良し悪しは分かっていないが、いい演奏だった気がしていた。
女の子は状況を把握したようで、
「あ〜・・・。どうも!ありがとうございます!」
はにかみながら照れ笑いを浮かべていた。
そして、そのまま石段を下りていき、途中でもう一度こちらに一礼して帰っていった。
どうやら、巫女袴のまま帰るらしい。
「かなり目立つんだろうなぁ・・・」
想像してみると、なかなか違和感のある絵だと思えた。
そんな感じで、上手くない笑顔で見送り終えると、境内には静寂が響いている。
「さて、俺も帰るか・・・」
少々勢いをつけて立ち上がり、自分も本来の目的の買出しへと戻っていく。
空は既に暗くなり始め、空気は多少冷たかった。
BG:ブラック
たったこれだけの事が、この後にどう響いていくのか。そんなことなどは分かるわけも無く。
俺も、あの女の子も、お互いの存在がお互いにどう影響するかなんてことは露ほども思ってもいなかった。
どこにでもある、ただ通り過ぎるだけのような出来事。
きっと、しばらくすると他の記憶に埋もれて無くなってしまうような、他愛も無い出来事なのだから。
けれども、何かが始まる時も、元を辿ればこんな些細な事から始まっていたりするものだと思う。
地味でありきたりな一瞬。そこから、この話は展開していく。
1.2
五月三日、火曜日。午後3時。
いわゆるゴールデンウィークの一日目。研修中である所の自分は、きちんとこれから三日間休むことが出来る。
始まった休暇に街もどこか騒がしく動いているように感じる。テレビからは観光地の満員度合いを伝えていた。
そんな、日本中が喜ぶゴールデンウィークの一日目。
「・・・あ〜・・・暇・・・」
布団でゴロゴロ。貴重なゴールデンウィークを全力で潰す勢いの自堕落ぶりだった。
「・・・同期の奴らは帰省してるし、どこ行っても満員だし・・・」
深い溜息。相変わらず、休日は生活の為の作業を終えてしまうと暇で暇で仕方が無かった。
「・・・趣味・・・でも持とうかなぁ・・・」
何の意志も含まない呟きが部屋に響き、テレビの音で掻き消えていく。
「・・・ここまでやる気のない人間でも無かったはずだったと思ったんだけどなぁ、俺・・・」
四月の終わり頃からだろうか。この、どうしてもやる気の起きない感情が日々続いているのは。
何をするにも気が入らず、最低限のことだけをこなす日々。
入社当初のやる気は一日一日小さく下方修正が重なっていき、気づけばこんな状態になってしまっていた。
「これが・・・五月病なのか・・・」
そう。おそらくこれが五月病と言われる物なのだろう。
通例に違わず、しっかりと自分も一般的な社会人の病気になってしまっていたようだ。
これもまた、社会人としての通過点なのだろうが、果たして自分は通過しきれるのだろうか。そんな不安が小さくよぎった。
「・・・・・・・・・」
しかしながら、そんなことは今は重要ではなかった。今重要とされているのは、”今日をどう生きるか”という課題なのだから。
出来うる限り、今日一日という日が意味のある一日であるように・・・。
勿論、そんなことを考えている時点で有意義な一日からは遠く離れていることは、考えるまでもないことなのだけれども。
そんなことを考えていた時、テレビでは京都の古寺を紹介する番組が流れていた。
琴の調べをBGMに、歴史ある建物が紹介されていく。
映像は次の場所へと移り、今度は神社の境内の映像が映っていた。
「神社、かぁ・・・」
流れる琴の調べと神社の境内。ここで自分は一昨日の神社を思い出していた。
たまには、ああいった静かな所でゆっくりするのもいいのかもしれない。そんなことを思う。
そんな、漠然とした理由で外に出る支度を始める。用は、この部屋から出る理由さえあればよかったのだろう。
支度を終え、テレビを消そうとした時。ちょうどBGMを担当していた人のインタビューが流れていた。
『日本の風景には日本の楽器が最も合う』みたいなことを語る彼に対し、
「・・・ピアノも、案外合うんだけどなぁ・・・」
小さくつぶやいて、電源を消した。
1.2b
BG:神社
住宅街の真ん中に建つ神社には、今日もピアノの音色が流れていた。
心落ち着く音色の中、境内でドッジボールをする近所の子供たちがきゃあきゃあと騒がしい。
太陽からの柔らかな日差しが周囲を照らし、境内には穏やかな時間が漂っていた。
「(今日も弾いてるのか・・・?)」
拝殿の石段を上り、格子戸から中を覗けば、一昨日に見た女の子が同じようにピアノを弾いているのが見えた。
とりあえず、前と同じように石段へ座り込む。
「(考えてみたら、かなり不思議だよなぁ・・・)」
神社の拝殿内で巫女の女の子がピアノを弾いている。それだけのことだが、思えば色々と変な構図ではあった。
何で拝殿の中に大きなピアノが置いてあるのか。
ゴールデンウィークなのに女の子は何故にピアノを弾いているのか。
そもそも、あの子自体が謎だ。おそらく、この神社の関係者なのだろうけど・・・。
「・・・・・・・・・・・」
こんな些細なことを考えてる間も、背中越しからはピアノの音色が聞こえている。
うららかな日差し。暖かな空気に誘われるように、ゆっくりと目蓋が落ちていってしまっていた。
気づけば柱に寄りかかっている自分がいる。
この音は寝るのに最適だと、そんな失礼な事を考えた後。完全に夢の世界へと落ちていってしまっていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・・・・・。・・・あー、すいません。あの〜」
体が揺らされて目を覚ます。最初に視界に入ってきたのは、ピアノを弾いていた女の子の顔だった。
「あ、起きました?」
辺りを見れば、落ち始めた夕日によって空は紅に染まっていた。
どうやら、二時間程度は寝てしまったらしい。頭を少し振って、意識を覚醒させる。
「確か、一昨日の人でしたよね?」
巫女服の女の子が自信なさげに聞いてきた質問に、思わず『はいそうです』答えていた。
「そろそろ日が暮れるので一応起こしてみました。それじゃ・・・」
一礼し、女の子は帰っていってしまった。
数秒した後には、境内には自分一人がぽつんと座っている・・・といった寂しい景色になっていた。
「・・・・・・帰るか・・・」
小さく伸びをして、”結局何しに来たんだっけ”と考えながら、帰路を歩いていく。
春の風が吹き、少しだけ服がなびく。暮れ終えようとしている夕日が、やけに寂しく見えた。
1.3
五月四日。ゴールデンウィーク二日目。午後2時。
BG:神社(主人公入り)
「・・・・・・・・・・・・」
右手には食材の入ったビニール袋。石段の感触はもはや三回目だった。
「・・・・・・あー・・・。平和だ・・・」
空を見上げれば春の青空が広がっている。
優しい陽光と暖かな風。のどかな時間がゆっくり流れていた。
買出しの帰り道。
普段と少し違う帰り道を歩くと、偶然にこの神社を発見した。何で今まで気づかなかったのかが不思議だと思う。
別段立ち寄る理由も無いので、通り過ぎるだけの予定だったものの、今日もまた例の女の子がピアノを弾いていた。
音色に誘われるように、気づけば足は境内へと歩いていた。
そして。今こうして、貴重なゴールデンウィークの午後を優雅に、あるいは無為に過ごしている。
今日もピアノの音が春の空に優しく響いている。
手足を伸ばしてみては、ぼけーっと空を見上げ続ける。
今更気づいたようだが、自分はこの場所、この雰囲気がどうやら気に入ってしまっているらしい。
いわゆる、自分にとっての”憩いの場所”という物なのだろうか。
ここに座り、陽光を浴びて、ピアノを聴いていると、心が落ち着くのを感じていた。
「(しっかし・・・。今は昼の二時だけど、袴の子はこの時間からずっと弾き続けているのか・・・?)」
いつも(と言ってもここに来るのは三度目だが)、自分が来る前には既に女の子はピアノを弾いていた。そして日没まで弾き続け、帰る。
果たして、いつから弾き始めているのだろうか。そんなことを思う。
「(今から日没まで・・・って、3時間以上あるよな・・・)」
考えてみると不思議な話ではある。普通に考えると、そんなに演奏し続けることなど出来るのだろうか・・・?
「・・・・・・・・・もしかして、幽霊?」
言って、我ながら子供じみた発想だと思ってしまったが、安易に否定しきれない部分も正直あると思った。
「(今時、袴の女の子なんて珍しいし・・・)」
この時の自分は、勝手に膨らむ想像に思考を奪われていたため、周囲の音に関しての注意が足りなかった。
いつの間にかピアノの音が消えていたことにも気づかなかったし、女の子が格子戸の前まで歩いていたことも気づくことが出来なかった。
だから。
SE:きゅぃー(木製の戸が擦れて開く音)
「うわぁぁっ!?」
勢いよく開いた格子戸の音に、ど派手に驚いてしまっていた。
つい反射的に、石段から跳ねるように立ち上がってしまった俺に対し、女の子はかなり驚いた様子を見せていた。
確かに、格子戸を開けた途端、いい年の男が飛び跳ねて驚いていたのだから、それは驚くだろうけど。
「・・・び、びっくりした・・・」
「ご、ごめん! いきなり開いたものだから、つい驚いて・・・」
自分より5,6歳は年下の女の子に謝る様は、なかなかに情けないが・・・仕方が無い。
今さっきまで、もしかしたら幽霊じゃないかという、破天荒な妄想で疑っていた部分も含めて謝った。
「あ、いえ、大丈夫です。 ・・・・・・ん?」
女の子が、俺の顔を見て何やら考え込んだ。
「・・・・・・あ。昨日、ここで寝てた人ですよね?」
「う・・・」
確かに、そのものズバリなのだが、改めて言われると結構情けなく聞こえる。
正直な所、『ピアノを褒めてくれた人』で記憶に残りたかったと切に思ってしまった。
「こんないい天気だし、気持ちは分かりますけど・・・」
「いやいや!大丈夫大丈夫。眠りに来てるわけじゃないからさ」
「あ、そうですか。 それじゃ、何か御用ですか?」
「あー・・・。えーと・・・」
”暇で暇で仕方が無いから、ここで時間潰してます”とは言い辛かった。
仮にも女の子の手前ってわけで、少しでも見栄を張りたかったのかもしれない。
そんな小さな見栄が、勝手に言葉を喋らせる。
「・・・その・・・。ピアノの音が綺麗だなーって思って」
「・・・へ?」
きょとんとした顔をする女の子。その次には、照れ笑いが浮かんでいた。
「あ、あはははっ。そういう風に言われた事、数えるくらいしかありませんよー。あんな大きなピアノ持ってますけど、聞いての通り下手なんで・・・」
「いやいや、本当にいい演奏だと思うよ」
これは正直な感想。上手い下手は分からないが、聴いていて心地よい音であることは確かだと思う。
女の子は嬉しそうに照れ笑いを浮かべている。褒められる事は本当に久しぶりだったのかもしれない。
「やだなぁ、本当に褒められる程のものじゃありませんって! ・・・あははっ」
謙遜の言葉を言いつつ、喜ぶ女の子。嬉しいのはいいけど、俺の背中をバンバン叩くのは如何なものか・・・。
ピアノを弾いている時は分からなかったが、案外この子は明るい性格をしているようだ。笑顔が良く似合っている。
「あんな演奏でよければ、いくらでも弾いてあげますよ・・・って言いたい所なんですが、私、これからバイトなんですよ・・・」
「そっか・・・残念」
「あ、どうしても聴きたいって言うなら、少し待ってもらえます?すぐ仕事片付けちゃいますから」
「・・・え?バイトって、そんなに時間短いの?」
「ちゃっちゃと終わらせれば30分って所です。それじゃ、早速・・・」
そう言って、女の子は拝殿に置いてあった靴を取り出す。袴には全く似合わないスニーカーが現れた。
「よ・・・っと!」
石段を軽くジャンプして着地。その動きには、この場所に慣れきった者だけのスムーズさが見える。
そのまま、境内の端にある小さな小屋へ入っていった。
しばらくして、片手に大きめの箒を携えて出てくる。
「・・・バイトって、ここの神社のバイトか・・・」
「速攻で終わらせますからー!座って待っててー!」
少し離れた距離を埋めるように、女の子が大きな声で話す。やっぱりこの子は、明るい系のようだった。
大きめの箒を手馴れた感じで操る女の子。箒で掃いた時の、ざっ、ざっ、という音が境内に響く。
しかしながら、境内には掃除をするべきな部分が見当たらなかった。季節も春のため、落ち葉があるわけもないわけで。
女の子は5mほど箒で掃いたと思ったら、すぐさまその箒を片してしまった。
「今日の仕事、終わりー!」
「それでいいのかー!?」
思わずツッコミを入れてしまう。30分どころの話じゃない仕事怠慢ぶりだった。
職務放棄も甚だしい袴の女の子は、小走りで石段へと帰ってきた。
「お待たせです」
「・・・いや、全然待ってないんだけど・・・。いいのか?あんなに適当で・・・?」
「いいんですよ。元々、汚れてないし」
確かに、この神社は社殿も境内も綺麗にされていた。とてもじゃないが、こんな職務怠慢なアルバイトがいるとは思えない光景だ。
「・・・今、”適当なヤツだなぁ”って思いませんでした?」
「・・・少しだけ」
「う。素直な人だなぁ・・・。いいんですよ。秋になったら毎日うんざりするほど掃除するんですから」
「秋? 去年もやってたんだ、このバイト?」
「そうですねー。確か今年で4年目になりますね」
「・・・4年?」
「あ、そっか。そういえば自己紹介もしてなかったんだっけ・・・」
そう言って、女の子は袴を軽く叩いて、僅かながら身なりを整えて言う。
「私、神明(かみあけ)みのりって言います。この神明神社の巫女、やってます」
「は、はぁ・・・」
つい生返事。巫女と言われても、具体的に何をやってるか正直わからない。
「まぁ、本当の所を言っちゃうと、叔母さんがここの宮司やってるんで、アルバイトさせてもらってるっていうだけなんですけどね」
またもや照れ笑いを浮かべながら、「給料も意外にいいんですよー」など話す女の子・・・もとい、神明みのりちゃん。
「ほらほら、ちゃんとそこにも『神明神社』って書いてあるでしょ?」
指差した先、ちょうど賽銭箱の真上には額縁のようなものが吊るされており、『神明神社』と書いてある。
「実は同じ漢字で神明(しんめい)神社っていう有名な神社があるんですよ。
けど、ここの神社はそこのパクリ・・・じゃなくて模倣品じゃなくて、ただ単に宮司の名前とこの辺りの地名が神明だったから、神明神社なんだね。
言うなれば、有名人と同姓同名だった人みたいな感じ。微妙ですよねー」
機関銃のように放す神明みのりちゃん。時々、丁寧語が口語になってしまってる辺りが若々しいというか。
「・・・っと、そうだ。私も名乗ったんですし、そちらも名乗ってくださいよー」
「・・・溝口、春樹・・・」
「溝口さんね。見た感じ・・・だけじゃ、ちょっと分からないんだけど・・・何やってる人?」
「一応、社会人。 ・・・今年から」
「うわっ、大人だ・・・」
「まだ会社入って一ヶ月だし、あんまし自覚はないがね・・・」
「私から見れば十分大人ですよ。あ、ちなみに私、高校二年生ですから・・・って、喋りすぎかな? 私」
「いや、全然構わないけど・・・」
「すいません、ピアノ褒めてくれた人なんてそうそういないんで、ちょっと舞い上がっちゃってるんですよ。いつもはもっとクールなんですけど」
あはは、と照れ笑い。クールさは正直見えなかった。
「っと、それじゃ、ピアノ弾きましょうか? 溝口さんも待ってくれたんですし」
「あ、じゃあ頼むよ」
「何か、弾いて欲しい曲とかあります? といってもレパートリーが多いわけじゃないんですけど」
「ああ、いや、いつもの曲でいいよ」
クラシックの曲なんて実は一曲も知らなかったりする。
「いつもの・・・。ああ、神明オリジナルね?」
「何だそりゃ・・・。コーヒーの名称みたいな名前だなぁ・・・」
「神明オリジナルは、お母さんが暇つぶしに作曲した曲なんですよ。溜まりに溜まって、今となっては200曲くらいあるんですけどね」
「に、200曲・・・」
「まぁ、半分くらいは忘れちゃいましたけど。・・・さて、そんじゃあ弾きますね」
そう言ってスニーカーを脱ぎ、格子戸を開け、拝殿へと入っていく。ピアノの鍵盤前に座り、袴の裾を直した。
「・・・あ」
「ん?」
立ち上がり、格子戸の前まで歩く神明みのりちゃん。
「えーと、あの・・・。出来れば、私が弾いてる所は見ないで欲しいなー、と・・・」
「何で?」
「私、弾いてる時ってノリノリなんで、そういう姿を見られるのは恥ずかしいんですよ・・・」
「そうか〜? 別に恥ずかしがるような姿じゃないと思うけど・・・」
というか、真摯に鍵盤に向かう姿はむしろ魅力的だと思うのだけれども。
「ダメです。そういうわけなんで、いつも通りにそこらへんに座って聞いてる感じにしてください」
「・・・了解」
仕方なし、前と同じように石段に座る。
背中越しでは、格子戸を閉め、ピアノの椅子に座った音が聞こえる。
「それじゃ、いきますね」
みのりちゃんの声を合図に、神社にピアノの音が響き始める。
さっきまでの彼女からは想像できないような繊細でしなやかな音色は、空へと舞い上がっていった。
・・・・・・・・・・・
BG:夕暮れ拝殿前。主人公:座り みのり:柱寄りかかり
「『何故ピアノを弾くのか』・・・ですか?」
「そう。休日にはいつも弾いてるからさ」
小さなコンサートが終わる頃には、夕日の差し込む時間になっていた
例え掃除が適当だとしても、綺麗な神明神社は夕焼けの明かりによって、どこか幻想的な雰囲気を漂わせていた。
「そうだなぁ・・・。まぁ、1つは習慣だから。2つ目は弾いてて楽しいから。3つ目は暇だから・・・。こんな感じ?」
「・・・案外、普通・・・」
「何?意外な理由の方が良かったの? それじゃ・・・。・・・・・・一日一回ピアノを弾かないと死ぬ病気っていうことにしようか?」
「いや、今考え付いたような嘘言われても」
「んー。まぁ、確かに変わってるかもしれないね、私。袴着て、神社の中でピアノ弾いてる巫女さんなんて、日本国内探しても私だけだろうね」
そりゃそうだろう。こんなミスマッチな組み合わせは見当たらないだろう。和洋折衷どころの話ではないし・・・。
「ああ、そういえば。あのピアノは?拝殿の中なんかに置いてていいのか?」
「・・・話すと長くなるよ?」
「どれくらい?」
「・・・運動会の時の校長先生の話くらい」
「・・・・・・OK、知らないでいいよ・・・」
「そういうわけで、あのピアノは引越しの際に部屋に置けなくなったから、叔母さんに無理言ってここに置かせてもらっているわけだよ」
「長くねぇー!!!」
「あはははっ、溝口さんツッコミ上手〜」
果たしてそれが”いつ”だったのかは分からないが、気づけば自分と神明みのりちゃんは仲良くなっていたようだ。
いつの間にやら会話の中の丁寧語がほとんど消えてしまっている。普段の彼女はこういう口調なのだろう。
「あのピアノね、実は近隣の人たちにちゃんと許可も貰ってるんだよ。あんな所で弾いたら、周りに聞こえまくりだしね」
「確かに。俺はかなり遠くから聞いたし・・・」
「だからこそ、下手な演奏出来ないんだよね。ある意味、毎回毎回コンサート気分だよ。観客はいないけど」
「みのりちゃんは、やっぱりピアノを習ってたりするのか?」
「・・・えー。”みのりちゃん”〜?」
「・・・・・・え?」
「”みのり”で呼んでくれていいよ。そっちの方が慣れてるから。何か、ちゃん付けで呼ばれるの苦手なんだよね〜」
「・・・OK、分かった」
「ふふっ。溝口さん、呼び捨てで呼べるからって甘い想像なんてしちゃ駄目だよ?ドラマや漫画じゃないんだし。
第一、私は5歳も年上の人はちょっと勘弁してもらいたいしね〜」
見事な程にすぱっと言い切るみのりちゃん。・・・もとい、みのり。
何やら先に釘を打たれたような気分。残念に思ってたりはしていない。 ・・・多分。
「案外、この袴ってのも最近人気あるみたいでさー。言い寄ってくる人が時々いるんだよね。
まったく、やんなっちゃうよ。衣服が理由で寄ってくるなんて邪道もいい所だよ」
そう言いながら、着ている袴をひらひらさせる。
「まぁ・・・。この点に関しては溝口さんは合格どころか花マルだけどね。
まさか、わざわざ貴重なゴールデンウィークまで聞きに来る人がいるとは思わなかったよ」
「・・・ま、まぁ、な・・・」
決して、『暇で暇で仕方が無かった』とは言えない。
「ところで、みのり。ピアノを習っているかどうかの質問の答えがまだなんだが」
「ん?ああ、忘れてたよー。 えーと、習っていたって言えば習っていたのかな?
用はお母さんがピアノの先生でさ。よく教えてもらったっていう訳だよ。小さい頃は発表会なんかも出たし」
「”習っていた”? それじゃ今は?」
「今はこうして、暇つぶしのために弾いてるだけ。別段、発表会なんてのも無いし、自由気ままってやつだね」
「そう言う割には、かなり熱心に弾いてるよなぁ・・・」
「・・・うーん、そうだね・・・」
俺の言葉に、みのりは少しだけ俯き気味にしゃべった。あまりに僅かな動作だったが、どこか印象に残る表情だった。
「あ、そうそう、溝口さん」 (途中or会話開始時に SE:携帯電話)
みのりがそう言いかけた時、どこからか電子音が鳴り響いた。
「・・・うわ、電話だ」
社殿に小走りで戻るみのり。よく見ればピアノの上に携帯電話が乗っていた。
ストラップ等の装飾が派手でないことが、何となく、みのりらしいと思った。
「・・・あー、はいはい。わーかったよ!すぐ帰るから!」
数秒程度の会話を終え、みのりは慌しく戻ってきた。
「溝口さんごめんねー。私、もう家戻らないとならないんだ」
言いながら携帯電話を、腕の長い袖の中に投げ込む。 ちょっとだけ便利そうだと思ったりした。
「それじゃね、またねー!」
みのりは、ほぼダッシュのスピードで石段を飛び越え、境内を走っていく。
時々こっちを振り向いては手を振っていた。
しばらくすれば、みのりは住宅街に消え、神社に残っているのは自分一人になっていた。
夕日はほぼ落ち、辺りは少し薄暗い。
「・・・さて、帰るか・・・」
すっかり忘れていた、昼に買ってそのままだったビニール袋を覗き込む。
・・・缶コーヒーがすっかりぬるくなり、生卵が1つ割れていた。
1.4
五月五日。ゴールデンウィーク最終日。午後三時。
BG:自宅
この部屋に入って一ヶ月経つが、この部屋にピアノの静かな音楽が流れてるなんてことは始めての試みだった。
しかしながら、実家から持ち出したコンポから流れる音楽は、殺風景な六畳一間に対して何にも影響力を持てないでいる。
「・・・・・・やっぱり、よく分からん・・・」
『はじめてのクラシック・ピアノ編』と書かれたCDケースを両手に持ったままにベッドへ倒れこむ。
恐らく有名なのだろう作曲家も、無知な自分にとっては”全く知らない他人”の域を出ることは無さそうである。
「・・・・・・・・・」
改めて分かった所は、ピアノは寝る時のBGMに最適だという所だけだった。ピアノ演奏者が聞いたら引っ叩かれるかもしれないが。
何の気なしにCDレンタルショップへ赴き、”目についたから”という理由で借りたが、このCDの返却は早そうである。
どうやら自分には、立派な作曲者が高度な技術と鍛錬によって生み出す音色よりも、袴着た変な女子高生が適当に弾く音色の方が合っているらしい。
まぁ、そっちの音ですら”何となく良いと思う”程度の感覚しかないあたり、どうやら自分はミュージシャンへの転向は考えないほうが良さそうだ。
ベッドの安いクッションに眠気を感じ始め、このまま寝てしまおうか・・・と思った時、玄関越しの廊下に足音が聞こえた。
間もなくして、インターフォンが鳴る。
ぴんぽーん。
ゴールデンウィークも働く宅急便の兄ちゃんは、大き目の菓子折り程度の箱を俺に渡し、サインを求め、そして帰っていった。
送り主を見ると、実家の住所と母親の名前が明記されていた。
部屋に戻り、包装紙を破る。中から出てきたのは石鹸の箱。この箱、確かお中元に貰ったやつだったな・・・とか思い出す。
中身まで石鹸でないように祈りつつ、蓋を開ける。
「・・・・・・ああ、そっか。今日は五月五日なんだよな・・・」
中には、しっかりと柏の葉で包まれた柏餅が十数個入っていた。ほのかに餡子の甘い匂いが部屋に漂う。
今日は五月五日。端午の節句。五階のベランダ越しに見える家々には、鯉のぼりが風に漂い泳いでいた。
思わず自分の小さい頃に想いを馳せつつ、箱の中に入ってた手紙を開封する。封筒までも甘い匂いがする。
・・・・・・・・・・
文面は、『元気でやってるか?』といった言葉を始めとし、『柏餅をたっぷり作ったので同じマンションの同期の人と分けて食べてね』の言葉で閉じていた。
もう一度柏餅に目をやれば、明らかに一人では食べきれない量であることを再確認する。
甘いものは嫌いではないが、ここまでの量を食べるのは恐らく無理だろう。特に、甘いものは傷むのが早いし。
「・・・仕方がない・・・」
このマンション内には、同期が数十名入居していた。各それぞれに分けていけば、何とか捌ききれるだろう。
同期にはこれからもお世話になるだろうし、小さな恩返し的な意味があってもいいかもしれない。
重い腰を上げて、柏餅の箱を持って立ち上がった。
・・・・・・・・・・・・・・・
数十分後。再び六畳一間の部屋で、愕然と床に倒れこむ俺がいた。
「・・・しまった・・・」
考えれば分かることだったが、今日は端午の節句である以上にゴールデンウィーク。
長い休みはそうそうないわけで、マンション入居者の大半は実家へ帰省していたのだ。
結局、同期に渡すことで捌いたのは数個で、目の前には未だに数十個の柏餅が箱に並んでいた。
コンポからのピアノコンサートはあざ笑うかのようにクライマックスへと突入している。
「・・・他に当ては・・・」
この街に引っ越して一ヶ月。会社の同期以外に知り合いがいるわけが・・・・・・・。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・一人だけ、いた。
思いついた自分は、十数個の柏餅のずっしりした重みを腕に抱き、玄関を出る。
コンポの電源を消し忘れたため、ドア越しにピアノの音が響いていた。
沈み始めようとしている太陽。暖かな陽気。非常階段から覗く五月の空には鯉のぼりがいくつもの遊泳していた。
余談だが。
ここで自分がもう少し冷静になっていれば、明日は出勤日であるので同期は夜になれば帰ってくると考えついたはずだった。
もしかしたら自分にとってピアノの音色は、心を落ち着かせる効果なんてなかったのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・
BG:神社
神明神社には、ピアノの音の代わりに竹箒の音が響いていた。
ざっ、ざっ。と、同じテンポで境内を掃除している赤い袴の巫女さんは言うまでもなく、神明みのりだった。
社殿の前には、おもちゃの鯉のぼりが左右それぞれに申し訳程度に泳いでいる。
「あ。溝口さん」
こちらに気づいたみのりは掃除の手を止め、こちらへ向かって歩く。スニーカーが砂利を踏んで音を立てた。
「ようっ。昨日ぶりだねー。今日も暇なの?」
いきなり失礼な台詞を吐くみのり。しかしながら、今の俺にとってはこの巫女さんだけが頼りなのだ。
そう思えば、どんな罵詈雑言だって可愛いものに思えてしまうのだから不思議ではある。
「みのり。四の五の言わずにこれを受け取ってくれ。とにかく黙って受け取ってくれ」
そう言って、柏餅の箱を手渡す。
「ん?何これ・・・?結構重いよ・・・」
バランスを上手くとって片手で箱を支える。そして箱の蓋を開けたみのりは。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これで・・・9個目・・・・・・」
ぎりぎり聞こえる程度の小さい声で、箱の中身に対して深い溜息を吐いていた。
・・・・・・・・・・
「無理だよ」
「いいじゃないか、もう一回くらい」
「絶対無理。これ以上は体が持たないよ・・・」
「嫌よ嫌よも好きのうちというじゃないか」
「そういう問題じゃ・・・」
「頼む。もう俺には君しかいないんだ」
「今日は朝からずっとだったもん・・・。もう限界だよ・・・」
「・・・ええい!この際、無理矢理にでも!!」
「え、ちょ、わ、わ、わ、わ!何をするつも・・・・・・むぐぅっ!」
SE:ごすっ!
口に無理矢理柏餅を突っ込もうとした所にみのりから打ち出されたアッパーは、女の子とは思えない破壊力でアゴを直撃した。
・・・・・・・・・・
柏餅の箱を挟み、俺とみのりはひんやりとした石段に腰を下ろしていた。
夕日がちょうど右から差し込み、境内に長い影を映し出している。
「・・・結構おいしいね。溝口さんちの柏餅」
「そうだな。・・・・・・一個目はな」
「・・・・・・うん、一個目は、ね・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
当然のことだが、口に物が入っている時に人間は会話をすることは出来ない。
お互いが柏餅を咀嚼している間には、当然のように沈黙が流れた。
話を聞くに、どうやらみのりは今日一日、柏餅ばっかり食べていたらしい。
端午の節句と言う事で、小さい男の子のいる近所の家族連れが神社を沢山訪れたのだそうだ。
その際に、その家族連れの善意で柏餅を貰う時があり、断るわけにもいかず、笑顔で食べる。
・・・それを8回繰り返したらしい。『もう当分、餡子は食べられない』と思っていた矢先に俺が現れたというわけだ。
結局、論争の後に何とか一つだけ食べてもらうということで妥協した。
14個の柏餅は、俺の頑張りによって9個まで減っていた。餅を包んでいた柏の葉がゆらゆらと風に揺れている。
「・・・・・・ふぅっ」
5個目完食。これで柏餅の残りは8個になった。
正直、もう見るのも嫌になっているのだが。
「まだまだ私には遠いね、溝口さん」
胸を張って言う、本日9個完食のみのり。例え一日中のトータルとはいえ、良く食べたものだと思う。
「まぁ、捨てるのは駄目だけど、無理は良くないと思うよ。・・・はい、お茶」
湯飲みを受け取り、口の中に張り付いた餡子を胃に押し流す。
本日は人が来るということで、こういったお茶なども用意していたんだそうだ。
この用意に、端午の節句のこの日を感謝したが、今現在の胃を苦しめているのも端午の節句の効果だったりする。
「はぁ〜〜っ。今日は大変だったよ・・・。水穂さんが旅行行っちゃったから、最初から最後まで一人だったんだよー?」
盛大な溜息。肉体的な疲労の他に、ゴールデンウィークを一日全部潰した事への不満も含んでいたように感じた。
ちなみに水穂さんとは、みのりの叔母さんで宮司をやっている人らしい。一応はここの管理者のようだが、見た事は無い。
みのりは、ほとんど愚痴のように今日の出来事を話した。
朝っぱらから袴姿でおもちゃの鯉のぼりを買いに行ったこと。その際、きちんと領収書も貰っていること。
お茶を出していたが、一度だけペットの犬にぶっかけてしまったこと。冷たい麦茶で良かったと思ったこと。
誰も来ない時は物凄い暇だったこと。ピアノを弾いてたらいつのまにか家族連れが来ていたこと。
小さい男の子を見て、自分の弟を思い出したこと。昔は可愛かったのに、今は・・・と思ってしまったこと。
今日一日の全てを伝えるかのようなみのりと、相槌を打つ俺。
風は少々肌寒く、辺りは時折通過する自動車の音だけしか響いていない。差し込む太陽は少しずつ沈んでいった。
沈みかける夕日に、俺は何故か寂しさを感じていた。この時間を楽しんでいる自分がいたことが不思議だった。
お互いがお互いをロクに知らず、干渉せず、干渉されると思ってもいなく、それでも仲良く喋っている。
こんな特殊な関係を、俺は気に入り始めていたのだと思う。
・・・・・・・・・
「五月っていいよね」
みのりは上目に空を眺めながら言う。唐突の切り出しだった。
「そうか?」
思わず問いかける。
「五月ってね、一年で一番素敵な時期だと思うよ、私」
「そうかなぁ・・・」
正直な所、俺は五月なんてものは春と梅雨の間で、ゴールデンウィークがある・・・くらいしか思っていない。
今ちょうど感じている五月病・・・なんていうネガティブな物もあるくらいだし。
「溝口さんは、”生命力”ってのを感じたことはある?」
これもまた、唐突な質問だった。相変わらず、みのりの視点は空へと向かっている。
『ない』と答えた俺に、みのりは一切気にせず言葉を紡いだ。
「新緑の候」
手紙の時候の挨拶。そう分かるのに少しの時間を要した。
「若葉の候」
「薫風」
「青葉」
「藤花」
「牡丹の花」
「新茶の香り」
歌うように、”五月”を表す単語が次々と並んでいく。
不思議なくらいに声が辺りに響いているような感覚を感じた。
「・・・・・・草原とか・・・森とか。こんな街の中じゃなくて、もっと草木の多い所に行けば溝口さんにも分かると思うよ。
草木の匂いとか、瑞々しさにね、ものすごい生命力を感じるんだよ。『これから頑張るぞ』って。そんな強い力を感じるんだ」
みのりはどこか楽しげに話す。さも秘密を暴露してるような、ワクワクとした表情だった。
「だからね、私は五月が好きなんだ。世界全部から生きてるんだってことを伝えてくれる、この時期が好きなんだよ」
こちらを向き、笑顔を向けるみのりに、
俺は、
僅かな間だけど、
見とれていたんだと思う。
・・・・・・・・・・・・・・
「たっぷりあるなぁ・・・」
「気にしない気にしない」
日が暮れるまであと数分。俺の片手にはスーパーの袋。中には四角に折られた大量の紙袋が入っており、それぞれの紙袋には『神明神社』と書かれていた。
さらにもう一方の手には、結局6つ残っている柏餅の箱がある。
「みのり。これ絶対に在庫処分ってやつだろ・・・?」
「いやいや、溝口さんには是非、端午の節句なお風呂を堪能してもらおうっていう、私の心遣いだよ」
菖蒲(しょうぶ)の入った袋は不思議と軽かった。これを湯船に浮かべれば、無病息災になるんだそうだ。
ただ、こんなに大量に入れるべきものかどうかは疑問である。
「はいはい、今日はこれにておしまい〜」
「そういえばピアノ聴いてなかったな・・・」
「あ、そうだったね。後で弾いてあげるよ。仕事の邪魔にならない程度ならね」
「ん。サンキュー」
みのりは少しだけ袴を正し、笑顔を浮かべる。
「それじゃ、またねー」
「おう」
別れの挨拶を済ませ、お互いの帰路へ着く。砂利を踏む音が2方向で響いた。
数歩歩いて、振り返る。
「・・・あ。そうだ、みのり」
「うん?」
「”またね”って、”また”来ていいのか?」
俺の問いかけに、みのりは笑顔を浮かべた。袴がなびき、夕日に照らされた笑顔は綺麗に映えた。
「好きにすればいいんじゃない?」
去るもの追わず、来るもの拒まず。実にみのりらしい答え方だと思った。
納得し、今度こそお互いの帰路へと足を向ける。
木々の擦れる音が聞こえる。
花の匂いを感じる。
草の新緑を目にする。
風の暖かさを感じる。
今までも感じていたはずの感触が、更に密度を上げて感じることが出来る。
五月。この瞬間だけ、これが新しく変わっていく季節なのだと感じれた。
きっと、自分もこの五月を好きになれる。そんな気がした。
見上げた五月の空は高く、広く、遠く。
黄昏時の空はやけに綺麗に見えた。
五月が、始まっていく。
continues to next week.